コメント
No title
また江戸から伊勢参りに出かける場合、金持ちは、吉田宿船町から、多くの者は牟呂湊から伊勢に向かったことも大きく影響しています。
羽田野の思惑と、伊勢参りが増えれば、牟呂に金が落ちるという俗な話から「ええじゃないか」が牟呂で発生したということになります。
それと、「牟留天神」は、『三河國内神名帳』での表記ですね。
龍の彫刻は立川系ですね。
ちゃんと調べたことはないですが、となると、大工は牛久保の岡田五左衞門家八代ということになりそうです、
Re: No title
コメントありがとう御座います。。。
えぇじゃないか
発祥説に仕掛人な方がいたと言うことでしょうか・・・
それでも当時、牟呂が賑わっていたという事は今からは
チョッと想像できません。。。
木鼻の龍の彫刻もかなり立派で見入ってしまいました。。。
これからも宜しくお願いいたします。。。
No title
羽田野が「ええじゃないか」の黒幕という点については、東三河の幕末史を把握しておれば、当然の帰結といえると思います。
羽田野は、羽田八幡宮文庫の創設といった功績もありますが、式内の阿志神社の神代文字入りの瓦など、東三河の神代文字関連の事案にも関与しています。
次に立川流についてですが、立川は信州諏訪の出身。三河の大工の筆頭で、牛久保の岡田五左衞門家八代當主の久米三郎之昌(1771~1837)が諏訪大社の修繕にいった折に会ったのが、幕末の左甚五郎といわれた立川和四郎富昌(1782~1856)。
豊川稲荷の奥の院が久米三郎之昌によるものであり、彫刻は立川和四郎富昌。海老虹梁の昇龍、降龍の彫刻を見れば、牟呂八幡宮の龍の彫刻も同系のものだとわかると思います。
ただ牟呂八幡宮の龍の彫刻は、立川系といっても和四郎富昌の手によるものではないと思います。
一度、豊川稲荷の奥の院をじっくり見てみるとよいかと思います。遠州三山の一つ可睡斎の舊法堂も岡田家が手掛けたものであり、秋葉權現堂の海老虹梁の昇龍、降龍の彫刻も立川系です。これも見てみる価値があります。
Re: No title
幕末につきましては全く興味がございませんが
説につきましては参考とさせていただきます。。。
妙厳寺にございます奥の院につきましては何度か拝見させていただいております。。。
ただ「誰それという有名な方が造ったものだ・・・」というお話について
私は非常に忌諱しており実のところ作者に関して興味がございませんので
失礼ながらそれらのお話も参考程度とさせていただきます。。。
これからも宜しくお願いいたします。。。